昭和50年06月16日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生まれて来たのではない。皆神のおかげで生まれて来たので早く生まれた者程、世の為に働きを沢山しておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人は何となく人が敬う様になるが、不都合不行き届きが重なれば敬うて呉れぬ様になる。信心する者はよう心懸けて居るがよい。」

 年寄りは要らん者にされると、よく年寄りの愚痴にまぁそう云う事を申します。年寄りは要らん者にされる。確かに歳を取ると若い時の様な矢張り役に立つと云う様な事はないのだろうけれども、矢張り若い時があり一生懸命、云うならば世の為にもなり、家の為にもなって来たのであるから、若い者に粗末にされたり扱われればこんな悲しい事はない。お互いも一遍は矢張り歳を取らねばならんのであるから、本当に自分が歳を取った時の事を考えて、年寄りを大切にさせて貰う。
 そういう心掛けが要ると云うのです。信心する者はそういう心掛け。それこそカー付家付婆ばあ抜きと云う様な実にひどい言葉がね、そのう巷に流行る様な時代なんです。本当に悲しい事だと思います。昨夜の御祈念を末永先生がしておりました。御理解の中にこう云う事を申しております。一日御用をさせて頂く、あれや是やと御用させて頂く。教会の内外の事、本当に忙しい毎日忙しいおかげを頂いとる訳で御座います。
 今迄は只御用を一生懸命させて頂くと云う事だったんですけれども、最近心行と云う事が言われ、心行一点に絞らせて貰える。しかも心行は何時でも何処でも出来るんだと、所謂心掛けだと云う訳です。信心させて頂く者は何時もこの心掛けをね、よくしなければいけません。心掛けなんです。そして思わせて頂く事なんです。末永先生が思う事、こうして一生懸命御用させて頂いとるが果してこの内容が、心行になり繋がりなっておるだろうかと思いますと云う事を言うとります。
 是は本気で心行に取り組んどらなければ言える言葉じゃないと思うですね。それに気付かないです。銘々様々な御用しとります。親先生が最近は心行心行と言われる。決して風呂場だけの整理整頓する事だけが整理整頓じゃない。自分の周囲自分の部屋、お広前全体に心付けさして貰わんならん。それも散らかっとるから綺麗にする事だけでなくて、果たしてそれに心行が伴っておるかと云う事を最近は思いますと云うのである。
 私くしそれを聞かせて頂いて、あのう今末永先生が心行に取り組んで居ると云う事を感じました。心行と云う事に心掛けておると云う事がそれで解ります。そうして心掛けておっても迂闊で、はぁ只一生懸命でやっておるだけであって、心行所か心の方は一つも心行になっていない。いやぁ自分乍ら自分でその御用頂いて居る事の内容を思うと、それこそ神様にも相済まん、自分から恥ずかしい様な心の状態で御用を頂いとると云うた様な事すらあるだろうと思うです。
 みんな誠が無い。そういう私くしは心掛け、だから是は年寄りだけと云う事ではない、物だけの事ではない、全ての事柄を信心さして頂く者はね、それを大切に頂かせて貰う。云うなら合掌してでもそれを受けて行く様な、心掛けが果してあるや否やと云う事をです、何時も心の中に検討さして頂いとったら、例えば年寄りに接するでもです。只口だけではないお世辞じゃない、心の底から言わば心行の伴うた、年寄りを大切にする事が出来ると思います。問題は心掛けなんです。
 昨日は梅の実会と言う会が発足いたしました。まあここ結婚したばかりの若い二十二、三から二十四、五迄の若い嫁さん達ばっかりなんです。皆んな結婚したばっかり、まだ結婚して一年か二年かした人達ですから、云うなら乳幼児、または悪さ盛りの子供を皆んな連れてやって参ります。急にだったそうです。私は知りませんでした。所が私はもう随分何ヵ月前だったでしょうか、此処で梅の実会と云う事を頂いたんです。
 ああ梅の実会てその良い会の名称だなあと、是はどう云う事だろうかと思わせて頂いとりましたら、そのう若い嫁さん達所謂ここでは若妻会とでも申しましょうかね。がもう十何年前に出来ました。これは竹葉会所が十何年経ちましたからもう好い加減若妻会でなくて、良いおばしゃま達になって居られますから、その後を受け継ぐ若い本当に若い方達ばかりの信心共励機関になる会を創りたいと云う願いが若い方達にあっておりました。それでまぁ昨日そういう計画をして下さった方達があって。
 昨日発会した訳であります。昨日は十四、五名の方達が集まっとりました。本当に若いあのう此処二、三年所謂つい最近結婚したとか、と云う様な若い嫁さんばっかりの方達で御座います。もう家の中でも一生懸命努めた上にも努めねばならない、立場にある人達です。第一に姑親に一生懸命心を使わなければならない。勿論主人をも大事にして行かねばならない。そして子供が出来れば又子の母としての忙しい御用もある。
 しかも立場としては嫁の立場ですから、まぁ一番言わばきつい所を通らせて貰わなければならない。云うなら方達ですから、まあ昨日その名が示す様に梅の実会。ですからどうでも一つ折角私は、若い時の苦労は買うてでもせろと云うから、その諺がありますが、是は若い嫁さん達の為に、ある言葉の様に思うという話をさして貰いました。若い時の苦労は買うてでもすると云うのは、本当に若い嫁さん達の為に出来とる様なもの。
 そこでならそういう苦労がです、只渋々であったりしょうことなしの苦労であっては、ですから折角買うてでもせろと言われる位ですから、有難く一つ本気で受けさせて頂かねばいけない。梅の花が咲くまでの辛抱、しかも咲いたら其処に薫ばしい迄の香りを放つ様なおかげを頂く。そして鴬も来て止まる。それが散るそれが梅の実になる。その梅の実がが梅干しともなる。
 あなた方が例えば若い時の苦労は買うてでもさせて頂く。それこそこちらから願ってでもさせて頂くと云う様な心の状態になる時にです、あなた方が梅干し婆さんになる頃にはそれこそ有難い有難い婆さんに成る事であろう。成れる事だろう私どんが若い時はこうじゃったばのと云うて、又そのまぁ言わんで済む様なおかげが頂かれるだろう。それにはどうでも嫁さんは嫁さんとしての、云うならば心掛けをね、一つ本気で実行して行かねばならん。それが信心でなされる時に、梅の実と云えばまあお徳の事でしょう。
 何時までも梅干しが悪くならないとか、まあどういう病人にでも与えて良いと云った様なおかげになって来るのですから、是から一つ一番大変な中にあるのだけども、それこそ歌の文句では無いけれども、言わば自分の大事な御主人を育てて下さった親様と思うて親様でも大事にさせて貰う、心から大事にさせて貰うと云う、いうならば心掛け。この心掛けを私くしは常に持って居るというか、心に掛けて居ると云うだけでも私はおかげを受けられると思います。
 心掛けていないから、何時の間にか矢張り粗末にしてならないものを粗末にする。特に私くしは昨日、若い嫁さん方にお水の大切さ、お水を大事に使いなさい。是から一つ第三日曜日が会合になっておる。この次の第三日曜日は二十日になるが、二十日の日には本当にお水を特に心掛けさして貰うて、大事にさせて頂くと云う信心をさせて頂いとったら、必ず何か発表が出来る様な体験発表が出来る様な体験が生まれて来るだろう。一つ本気でお水を大切にさせて頂きなさいよと云う様な事を申しました。
 是は信心させて頂く者の言わば心掛けなんです。水を大切にする。是は年寄りだけを大切にする事ではない。事柄云うなら主人も大事にするなら、その親である所の姑も大事にする。そういう私くしは心掛けを持つ事だと思うです。丁度会を始める前の一時からでしたから、御祈念をさせて頂く時、私くしここに座らせて頂きましたら、森山幸子さんと云う方のお初穂が此処にのっとった。神様はその事からその御理解を下さいました。森と云う事は三つの木と書いてある。
 山と云う事は修行と云う風に此処では言われる。云うならば主人にも親にも子供にもその心がね、そんならその心がね木は心です。心が寄り添うて初めて森と言う字になら。それを修行と思わせて貰う。それが森山である。森山幸子さんと云うのです。そこに幸せの本当の幸せがそこから生まれて来ると云うのです。会を三時半迄にさして。若い嫁さん達ですから、夕方でも早く帰らなければいけません。それで外の会よりも早く切り上げる。丁度三時半には最後の此処で御祈念をさして貰う時間に終らせて頂きました。
 そこに又此処にお届けしてあったのが、仁田坂正治さんです。正治とは正しく治めると書いてある。是を最後の御理解に聞いて頂いた。矢張り山ですから矢張り何時もね、何時も絶えず是は若い嫁さん達だけの事ではない。信心する者の皆んなの心掛けです。信心させて頂く者は普通の平道を歩いているのではない、少しは爪先登りの道を歩いておる様な心掛けを持たねばいけんのです何時も。
 それは朝参りでもさせて貰うと云う、なら心掛けとかにゃ出来る事じゃないです。例えばんなら馬鹿と阿呆になる事が人間最高の知恵だと云われて居るがです、その馬鹿と阿呆になると云う事だって心掛けとかんと、うっかりして利口者んになろうとするです。昨日は富久信会で御座いました。もう何時もの事ですけれども富永先生の所の日奈久の教会から丁度先生共十名見えとりました。
 まぁ本当にまぁ小さな教会と云うのに、まあ立派な揃うた御信者さん方ばっかり商売される方達ばっかりが、十人揃うと云う事はほんとに。まぁだ御祈念の時には合楽の者は誰ぁれん来とらんじゃった。佐田さんの会長さんが一人見えとるだけじゃった。御祈念が済んだっちゃまだ集まらじゃった。まぁ後からボツボツま集まって来る。もう本当に恥ずかしいごたる感じでした。
 日奈久辺りから十人の人達が、しかも時間励行で集まって来とるなら、合楽の場合はそれこそ五十人位集まっとらなければ、大体はいけない様な感じですよね。その中にです、私くしも馬鹿と阿呆と云う事に付いて、あのうお話させて頂きましたから、大体親先生馬鹿と阿呆ちゃどう云う事ですかち、馬鹿と阿呆になれ馬鹿と阿呆になれちゅう云う事言うですが、なら馬鹿と阿呆ちゃどう云う事ですかと。そりゃ馬鹿と阿呆たいと云うより言い様がないです。
 そりけんと云うて本当にあのう、さら馬鹿ちゅうのが居りますが、あげんたかえってプリプリ腹掻くですもんね。かえって馬鹿んごたるとが方が腹掻くです。だからおかげの受けられる、言うなら人間の最高の知恵とまで言われるその馬鹿と阿呆とは、どう云う様な事か、と質問を受けたけども私くしも返事に咄嗟に困った。そしてその方が色々と馬鹿と阿呆の事がどう云う様な事だろうと、話をさして頂いとるのを黙って聞かせて頂いとったら、神様から自在と云う事を頂いた。
 あの自在掛けと云うのがありましょうお茶のなんかの時に使います、あのうこう自由に上下される、ははぁ馬鹿と阿呆と云う事はこう自在と言う心掛けだなと思いました。しかも是はね、対人間ではなくて対神様の私共と神様のとの、言わば出会いに於いての物だなと思いました。所謂神様との前にはそれこそ、馬鹿程素直になれと言われるのはそれなんです。右を向けと言われればハイ、左を向けと言われればハイと、言えれる心が馬鹿と阿呆でと云う事を説明を頂いた。
 私はそういう質問を頂いて改めて、馬鹿と阿呆の内容が分からせて頂く様な気が致しました。云うならば自由自在な心なのです。馬鹿と阿呆と云う事はね、それは丁度水の流れるのに何の不平不足もない様に、そこに障害物があってもそれをまた回って回るあの水の生態の様に、小さい物に入れられれば小さく、四角い物に入れられれば四角になる。あの水の生態の様な物である、馬鹿と阿呆とは。
 だからその馬鹿と阿呆になると云う事でもです、所謂心掛けておかんと私共は中々矢張り、利功者になってしまうておる事になるのです。梅の実会に言うならば信心させて頂くの、特に若い嫁さん達の云うならば心掛け、それを信心でなされて行くおかげを頂かなければならないと、愈々大きなおかげを頂かせて頂きたいと思うなら、愈々馬鹿と阿呆にならなければならない。
 そういう心掛け、その心掛けとは、所謂自在な心。そういう心にならせて頂く事の為にです、仲々心が云う事を聞かぬ、自由自在に動かない。そこに本気で清まらなければならない。本気で改まらなければならないと云う事になって来る。それは信心させて頂く者の、云うならば心掛けであります。果して今年寄りにこう向かい合って、年寄りと話なら話をさせて頂いとるが。
 只年寄りじゃけんと云うて良い加減の事どん、只気休めの事を言っておる様な事どん云うとる様では、年寄りを大切にしとるとは云えない。御用させて頂ながら果して今のその御用させて貰っているその内容が、心行につながってとのか否かと云う事を検討して見る所に、心行は何時でも何処にでも出来ると云う事になる。矢張り心掛けであります。私はこの八十節は信心さして頂く者の心掛けが説いてあると思うです。
 確かに世の中から年寄りは特別に大事にされておる、優遇されとるとは思わない。形の上では出来て居る。けれどもまぁ年寄りはそのう出しゃばんなさんなとか、まあ引っ込んどかんのと云った様なものを、心の中に感じて居る様な事では、年寄りを大事にして居る尊んでおるとは云えない。信心さして頂いとる者の心掛けとしてです、世の中からはそうして大事にされない様な。
 是は人大事にされない様な事柄、大事にされない様な、云うなら年寄りをです、尊ばして貰う大事にさせて貰うと云う様な。言わば自然をその物を成行きその物を、尊び有難く受けて行くと云う生き方にもです。そういう心掛けが無からんと迂闊になってお粗末御無礼の事になってしまうのです。愈々私は心に掛けさせて頂いて、信心の稽古をさせて貰わねばならんと思います。しかも唯大事にすると云う内容がです。
 尊ばねばならんと云われとります。全ての事を尊ぶと云うことはそれを拝んで受けると云うことなんです。そういう様な例えば、人間関係が生まれてまいりましたら、いよいよ私しは有難い家庭、有難い世の中が開けて来る事だろうと思います。御用を頂いて居る果してその内容は心行に繋がっておるかどうか、何時もこの事を思わなければならんと思うですね。
   どうぞ。